日本には、割れたり欠けたりした器を金粉などで装飾して蘇らせる「金継ぎ」と呼ばれる伝統技法がある。その継ぎ目を「景色」と呼び、愛でる心は、日本特有の美学といえるだろう。今回は、金継ぎの歴史や魅力について解説する。
金継ぎとは
金継ぎとは、器の欠けやヒビ、割れを修復する伝統技法である。金継ぎとはいうが、実際は割れたり欠けたりした部分を漆でつなぎ、金や銀の粉は仕上げの時のみに使う。
ここでいう漆とは、ウルシ科ウルシ属の落葉高木「ウルシノキ」から採れる樹液のこと。漆に含まれるウルシオールという成分は、空気中の水分と結合することで固まる性質があり、いったん乾くと溶けることがない強靭な塗膜を形成する。日本では古くからこの漆を塗料や接着剤として使ってきた。合成接着剤が開発された現在でも、漆ほど安全性が高く、強固なものはないと聞く。
金継ぎはこうした漆の特性を生かし、発展させた伝統技法である。漆で接着すると継ぎ目に黒い漆の跡が残るため、金粉や銀粉で装飾を施した。金継ぎとは、壊れた部分を目立たないようにする西洋式の修理とは違って、修理した部分をわざと金で強調することにより新たな美しさを生み出すものだ。金で繕った部分を「景色」と呼び、破損前と異なる趣を楽しむことも金継ぎの醍醐味の一つといえよう。
金継ぎの歴史
日本では、縄文時代から漆を接着剤や塗料として利用してきた。東京都東村山市の下宅部遺跡遺跡からは、漆塗りの木製品や弓、漆を接着剤として使用した土器などが出土している。しかし、まだこの時代には、金属粉による装飾は行われていなかった。
金継ぎの発祥は諸説あるが「茶の湯」が流行り出した室町時代といわれている。千利休によって完成された茶湯は、当時の大名や豪族、金持ちの商人など、富と権力を持ったごく限られた男性の趣味だった。
その中でも茶の湯に熱心だったのが天下人、織田信長である。茶道具の大コレクターであった信長は、茶の湯を政治に利用した。信長は家臣たちが自由に茶会を開くことを禁止。戦いで大きな功績を残した家臣のみに、名品の茶道具を与え、茶会を開く許可を与えたのだった。
当時の大名たちにとって、信長からもらった茶道具で「茶の湯」の茶会を開くことは大きな憧れ。茶の湯に使う茶碗は非常に貴重で高価なものだったので、壊れたからといって捨てるわけにはいかなかった。そんな背景から金継ぎの文化が生まれたとされる。
昔の茶人は、金継ぎした跡を「川の流れ」と呼び、不完全なところに美しさを見出し、愛でて楽しんだ。これは日本ならではの「わび・さび」の哲学に通じるものだ。
金継ぎの魅力
世界各国にも破損した陶磁器を修復する文化や技法はあるが、破損したものに新たな命を吹き込んで、まったく新しい価値を生み出すものは他にはない。ものを慈しみ、大切にする日本の「もったいない」精神が生み出した、サスティナブルな文化といえるだろう。
どんなに大切に扱っていても形のあるものはいつか壊れてしまう。しかし、金継ぎで修復すればそこで終わりではない。金継ぎを施した器は、唯一無二の存在。自分だけの宝物を見つけたような気持ちになれるはずだ。それこそが金継ぎの魅力といえるだろう。
ものを大切に長く使うために生まれた金継ぎの技法。そこには、ものを慈しみ大切にする日本人の「もったいない」精神が込められている。割れた跡に美しい金のラインを施すことで、世界に一つしかない新たな魅力を備えた器に生まれ変わるのだ。たくさんのもので溢れている今の時代だからこそ、日本の金継ぎの精神に触れてみてはいかがだろうか。